神様の像を運ぶロバ『童話から考察する、新しい視点』
どうも!もーりーです!
今回はイソップ童話の一つである『神様の像を運ぶロバ』という物語を読んでの学びをシェアしていきたいと思います。
童話『神様の像を運ぶロバ』とは
イソップ童話の一つで、内容を簡単に書き出すと
ある男が銅でできた神様の像を神殿に運んでいる道中のお話です。
神様の像を運ぶロバと男が神殿に向かう道中に、
人々はその一向に通り過ぎるところでは、街中の人々は深々と頭を下げ、祈りをし始めます。
その当時、神聖な神様に向かってお祈りをするのが当たり前で、なおかつなかなかお目にかかれるものではなかったのでしょう。
ロバはその光景を見て、「これは私に向かってお祈りしているんだ。私はこんなにもすごい存在だったんだ」と勘違いしてしまいます。
そのとき、ロバは歩くのをやめ、「こんな重たい荷物を運ぶようなロバじゃない」と思い、暴れてその荷物を振り落そうとしてしまいます。
そのとき、ロバと一緒にいた男がロバの感情に気づいて、「これはお前に向けられてるものではない、お前が背中に乗せている神様の像にむかってお祈りをしているだ!お前は所詮ただのロバなんだ!偉くなんかになれない」とひどくしかりつけました。
ここでの一般的に言われている教訓は
どんなに偉い肩書きを持っていたとしても煽てられても、その人自身が偉い存在になったわけでない。肩書きを振りかざすような奴は笑い者にされ邪険にされるだけだ。
という教訓が一般的に知られています。
違う目線からみた教訓
イソップ童話で出てくるロバはよく人としての例えとして用いられる。
教訓1、自己重要感の重要性
ロバは自分の使命や仕事をいつもやりたくてやっていたわけではない。男に言われたから渋々、神様の像を運んでいた。
神様の重要さなんてロバには関係ないし、ロバに取ってみれば聖なるものでもなんでもない。
そんな時に、自分に向かって拝んでくる人々。
ここで、自分の奥に潜んでいた承認欲求が表にでてしまったのではないのか?
もし男がいつも重い荷物を運んでくれるロバを大切にしてあげて、お前は大切な存在なんだ、と常日頃からロバの自己重要感を満たすことをしていたら
街の人々から崇められたと勘違いしたとしても、もともと満たされているロバは仕事を放棄せずに真っ当に仕事を遂行しただろう。
自己の重要感がどれほど大切なものなのかを気づかせてくれる童話でもあったのだ。
教訓2、上司の能力不足
いや、まて。これはもっとシンプルで男とロバとの連絡不足という問題なのではないだろうか?
神殿に神聖なる神様の像を運ぶという名誉なことができる機会が来たんだとしっかりとロバに伝えていれば、
ロバが勘違いを起こすこともなかっただろうし、途中で仕事を放棄することもなかっただろう。
これは、男がロバにとりあえずお前は何も知らずに運べばいいというような態度を取っていたからであろう。
さらに、人々が見てる前でロバを叱りつける場面があるが、単純に男は自分の能力不足を露呈するのが怖くて、ロバをしかるという形で人々を納得させたかったのである。
これは会社であれば、上司と何も知らずについて来させられた部下がクライアント先で失態を犯した時に、連絡不足だった自分の失態を差し置いて
堂々とクライアントの前で部下を怒鳴りつけて自分の威厳を保とうとするずるい上司の例えであるとも考えられる。
教訓3、奴隷制度のアンチテーゼ
また新たに視点を変えて、イソップ童話が生み出された時代には奴隷制度があった。
ここでの話はこの奴隷制度の縮図を表しているのではないだろうか?
しばし、ロバはバカな動物としてイソップ童話で使われることが多い。
ロバを奴隷と例えるなら、感情を表にだしたロバに対して男が激怒する場面があるが
これは奴隷には意思や感情を持ってはいけないという話なのではないか。
もしくは、イソップ自身は元々奴隷の身分であったので、これは奴隷制度へのアンチテーゼとして書いた童話なのかもしれない。
教訓4、争いはどこからくる?
ロバは知っていたのかもしれない。神様の像を運んでいることを。
そういう視点で見てみるとこの童話は違った形で見える。
ロバは故意に人々が崇める目の前で神様の像を壊そうとしたのである。
どこに争いの火種をつけるやつがいるかどうかなんてわからないものだ。
という教訓に変わる。
最後に
一つ視点を変えるだけで、物事の捉え方や学び方は異なってくるし
何か一つ出来事にたいして、十人十色の受け取り方ができてしまうということもある。
学びとるときはたくさんの視点を持ちながら学び、
伝えるときは自分の言葉が相手にどう受け取られているのかを考えながら話すのも大事なことである。